カトリック四ツ家教会の歩み
−岩手の福音宣教の歩みと合わせた明治から昭和まで.の歩み−

1874年(明治7年) 1871年(明治4年)から日本での再布教を志して新潟や弘前を視察に来ていたパリ外国宣教会の神父たちは、秀吉による伴天連追放令(1587年)が解禁(明治6年)されたため、岩手には明治7年、秋田を経て到来、米内村下小路の民家を伝道所として福音を伝え始めた。1931年(昭和6年)、カナダのドミニコ会へ移管されるまで岩手の各地で布教を続けた。

1878年(明治11年)パリ外国宣教会の司祭が東京築地教会から派遣され、鍛冶町(現在の上の橋から中の橋との間にある中津川の東通り)に貧しい人を助ける授産所を兼ねた仮聖堂を建てた。これが四ツ家教会の前身となった。

1880年(明治13年)同宣教会は、現在の盛岡市本町通(旧町名、八日町)の北隣、四ツ家町の一区画を買い取り.、この地に四ツ家教会を建て、聖母のけがれなきみ心に献堂した。

1892年(明治25年)パリ外国宣教会の依頼で、フランスのシヤルトルから4人の聖パウロ修道女会の修道女が盛岡に派遣され、現在盛岡中央郵便局のあるところに盛岡白百合学園の前身である私立盛岡女学校を創立した。

1897年(明治30年代)東北の大凶作には、パリ外国宣教会や四ツ家教会の信徒たちは全国に救援を呼びかけ凶作農民の救援に当たった。

1912年(明治45年/大正元年)ゴシック風の四ツ家教会を新築、献堂した。

1939年(昭和14年) 1936年、ベルギーから6人のドミニコ会の修道女が盛岡に修道院を建てるために着いた。内丸の借家を仮修道院としながら、1939年に、上田蝦夷森(緑が丘)にロザリオの聖母修道院を建てた。 1986年に松園に隣接する上田松屋敷の地に移転、修道院を新築した。

1941年(昭和16)〜 1949年(昭和24年).戦中戦後は、邦人司祭の司牧となった。

1949年(昭和24年)終戦を迎え、聖フランシスコ・ザビエルが日本で福音を伝えてから400年になるのを記念して、聖フランシスコ・ザビエルの聖腕を奉持した使節団が来日し、盛岡においても聖腕行列と祝典が行われた。
同1949年(昭和24年)仙台教区は、1921年にスイスのインメンゼ一に創立されたべツレヘム外国宣教会と岩手県の福音宣教の契約を結んだ。
 同宣教会は、岩手県を盛岡(盛岡、紫波郡、稗貫郡)、松尾(岩手郡)、水沢(水沢、江刺郡、和賀郡)、一関(一関、東磐井郡、西磐井郡)、遠野(釜石、上閉伊郡、気仙郡)、宮古(宮古、下閉伊郡)の6小教区に分け、すでにあ.った盛岡(四ツ家)、一関教会に加えて、13年間に1 4教会を新築、献堂した。

1978年(昭和53年)岩手カトリックセンター・四ツ家教会を新築、聖母の汚れなきみ心に献堂し現在に至る。 (旧四ツ家教会は厨川の旧盛岡生活学園跡地に移築、盛岡大学細川泰子記念礼拝堂として保存されている。
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