岩手の風土記シリーズ(4) 塩の道

 

塩の道(しおのみち)とは、塩や海産物を内陸に運ぶのに使われた道のことをいう。

また反対に内陸からは、山の幸が運ばれた道でもある。日本では塩は海辺の塩田に頼っていたことから、海と山を結ぶかたちで塩の道は各地に数多くあり、日本海側の千国街道(糸魚川 - 松本・塩尻)や北国街道(直江津 - 追分)、太平洋側の三州街道(岡崎 - 塩尻)、秋葉街道(御前崎 -塩尻)などが塩の道として有名である。雪深い内陸地に住む人々にとって、冬場は漬物や味噌を作って保存するなど、塩は生活に欠かすことのできないもので

あることから、重要な生活路でもあった。

今回は岩手の「塩の道」について紹介する。南部藩政時代、三陸海岸北部(北三陸)に位置する野田村で作られた塩が、久慈を経由して、平庭高原、葛巻を通って沼宮内に抜け盛岡城下までのコースと、沼宮内から平舘を経由して花輪(現秋田県鹿角市)までの2つのコースがあった。かつて花輪は南部藩の領地であったため、塩が花輪まで届けられていた。当時野田浜付近には10か所の製塩所があった。ではなぜ北三陸で製塩が盛んだったのだろか?これは製塩方法に起因しているようだ、「直煮製塩」といい、海水を直接釜で煮る方法である。一般的な製塩方法では、塩田などで海水の塩分濃度を高めたものを煮出して造られるが、地形的に三陸は砂地が少なく塩田などは難しく、歩留りは良くないが、この「直煮製塩」の製法がとられた。さらに製塩用の鉄釜を作る砂鉄の産地であること、燃料になる薪の調達が容易なこと、塩田とは違い、やませの影響を受けずに少人数で塩が製造できた事などによる。かつてはこの直煮製塩の塩釜が222か所もあったとされる。(野田道の駅掲載資料より)

  

  【塩の道マップ】              【野田牛方の像】

民謡南部牛追い唄でもあるように、南部藩では牛が重要な運搬手段として重宝されていた。この塩の道での運搬手段は牛であった。ではなぜ牛を選択したのであろうか?荷物の積載量は牛、馬とも1頭当たり100kgとはほぼ同じであるが、馬の方が牛より倍速く移動できたといわれた。しかし馬は一人当たり4頭が限界なのに対し、牛は一人当たり7頭を引いたとされる。また、野田から盛岡城下までの道のりには、平庭峠や黒森峠などの難所があり、馬では荷崩れが発生し易く、悪路を越せない場合が多かったようだ。このため歩みの遅い牛だが、悪路に強い牛が輸送の主役になった所以だ。この塩の道の沿線の山間部ではコメの耕作地はあまりなく、雑穀類が主な生産穀物であった。中でも大豆は貴重な生産穀物であり、味噌や、豆腐作りが盛んになったといわれる。この豆腐作りに必須なのが「にがり」である。このにがりは野田から運ばれる塩からにじみ出たものを道中のそれぞれの牛宿で物々交換により得たようだ。したがって岩手の県北地方で豆腐田楽などの豆腐文化が花開いたのも「塩の道」のおかげである。豆腐田楽は固めの豆腐に、にんにく味噌などを付けて焼いた県北地方の代表的郷土料理の一つだ。

   

   【豆腐田楽】                【のだ塩】

この牛たちは塩だけではなく様々な物資を運んだようだ、砂鉄の産地であったの野田から、刃物の産地である新潟県の三条まで運搬した記録があり、当時は数か月掛かって運んだと推察されるが、帰りは牛方達がお金だけ懐に入れて帰ってきたとの事、この残された牛たちが、新潟県山古志村に伝わる闘牛のルーツといわれている。山形村の平庭高原で催される闘牛もその時の縁に起因したのかもしれない。さらに、この南部牛が改良されて、いわてのブランド牛「いわて短角和牛」となり、我々の食卓を時々賑わしていることは言うまでもない。最後に、盛岡市にある塩の道に関連する故事を紹介しよう。

盛岡市鉈屋町にある千手院というお寺の言い伝えである。むかし、千手院に境内に一頭の背赤の牛が息も絶え絶えに倒れこんできた。牛は塩の道から来たらしく、塩の空かます(塩を入れる袋)を付けたまま弱り果てていた。そこに血相を変えた野田の牛方清右衛門が「塩が全部中津川で溶けてしまった、ぶっ殺してやる!」と怒鳴り散らしながら駆け込んできた。そこで騒ぎを聞きつけた萬円和尚(千手院五代)は、「畜生でも仏門を頼って助けを求めてきたのじゃ」と諭し、「牛には何の罪もない、牛方に問題があるのでは」と説教した。清右衛門は背赤牛の弱っていく姿を目の当たりにして、自分の非を悟り、牛の背を何度も撫でて謝ったが、牛はそのまま生き返ることはなかった。大変悲しんだ清右衛門は、当時の名工に頼んで、牛の姿の像を「撫でベコ」として作成して千手院に寄進したのである。この「撫でベコ」を撫でることで、健やかなる子育てへの願いと、牛方道中から交通安全の願いが叶うといわれている。

取材当日は、すぐ後に葬儀があるためご住職の話は聞けず、本堂にある「撫でベコ」の写真撮影だけ許可を頂いて撮影したものである。「撫でベコ」の下に敷いてある布団は、願いがかなった人たちがそのお礼に寄進したもので、願いが叶うたびに新しい布団になるという。

皆さんも盛岡にお越しになる際には、千手院の「撫でベコ」をなでながら、遠い塩の道に思いを馳せて見てはいかがでしょうか?

 

  

    【千手院】            【撫でベコの史跡の標】

  

    【撫でベコの像】