岩手の風土記シリーズ(6) 長者屋敷と長者屋敷清水

 

日本各地に長者屋敷伝説がありますが、筆者の住んでいる八幡平市にも長者屋敷伝説があります。しかも2か所もあるのです。一つ目は松尾にある「長者屋敷伝説」、もう一つは田山にある「だんぶり長者伝説」です。「だんぶり」とはこの地方独自の方言で、「とんぼ」の事です。今回は松尾にある長者屋敷清水にまつわる話を紹介しよう。

        【長者屋敷公園】

国道282号線を安比方面へ北上、八幡平市市役所を通過してJR花輪線松尾八幡平駅を200m程過ぎたあたりに左に折れる道がある(セカンド安比に行く道といえばわかりやすいかも)。この道を1km程行くと左側に長者屋敷清水がある。現在は長者屋敷公園として整備されている。この公園には長嶺神社と長者屋敷清水がある長嶺神社は長者屋敷とも呼ばれ、奈良朝の時代、高丸悪路の子、登鬼盛の居城にして登鬼盛長者屋敷とも呼ばれる。長者屋敷は、縄文時代から平安時代までの重層の大規模遺跡が出土しており、蝦夷のチャシ(砦)跡との説もある要害の地で、前を川が流れ、後方を巨岩と山で囲まれた天然の要塞であったようだ。一方長者屋敷清水は岩手の名水20選の一つにも選ばれている名水である。この長者屋敷清水は巨岩の根元から湧き出ている水で、水温は通年10℃前後で、カルシウム、マグネシウムなどを含有する軟水で、この水目当てに地元の人はもちろん、遠くは盛岡からも水汲みに訪れる人が絶えない。取材当日も何人もの方が水汲みに来ていた。この水はコーヒーやお茶、炊飯にと人気がある。またそばを打つのにこの水でなければならないという方もいるとか・・・。筆者もこの水でコーヒーを入れたことがあります。ミネラル豊富な軟水で入れたコーヒーなのでとてもまろやかな感じでした。さてこの長者屋敷の由来を紹介しよう。はるか昔この地は蝦夷の民が住んでいた。この地はマト―コタンと呼ばれていた。(マト―コタンとは松尾村のアイヌ語表現らしい)そしてこの長者屋敷の主は、「西の長者」と呼ばれて村の人々から尊敬されて、平和に暮らしていた。ある時西根の「東の長者」の娘との婚姻があった時、嫁入り行列を輿入れする際に、豆俵を川に敷いて臨時の橋を作って輿入れ行列を屋敷に迎い入れたため、豆渡長者という別名も付いたとされる。しかし平穏な日々は長くは続かず、この頃大和朝廷の蝦夷討伐が起こり、岩手県の南部にまで朝廷軍が攻め込んできた。このため、この長者も蝦夷の棟梁として戦いに出かけざるを得なくなり、一関方面へ出征していった。侵略者に対する原住民の必死の抵抗である。そしてこの長者が蝦夷の「悪路王」または「アテルイ」と呼ばれ朝廷側に恐れられた人物である。しかし坂上田村麻呂に囚われて、首をはねられることになった。その後この長者の一子登喜盛は朝廷軍に対して徹底抗戦したようである。このため登喜盛は悪名高き悪役として位置づけられたようだ。登喜盛は各地を略奪して、財宝をこの地に蓄えていた。そしてある時、登喜盛は盛岡に住む神子田多賀康の娘岩花を、家宝のお釜とともに拉致しこの地に幽閉した。多賀康は娘の救出を坂上田村麻呂に依頼、田村麻呂は登喜盛一族を討ち果たし、無事に岩花を救出した。また岩花が家宝のお釜とともに幽閉されたことからお釜清水とも呼ばれ、水不足の時はお釜の水をかき回すと、降雨間違いなしとも言われている。いずれにしても、時の民衆から慕われ、尊敬もされていたこの地の主であった蝦夷の一族が、時の権力者である大和朝廷に屈し、「悪路王」と呼ばれて犯罪者扱いされた事は悲しい事実であると同時に悲哀に満ちた物語でもある。登喜盛一族は我が身を守るためにやむなく反撃、交戦したともいえる。その後の言い伝えでは田村麻呂=正義の味方という構図になったのも、勝者の理論でやむを得ないことであろう。すぐ近くにこんな物語があったとは、岩手は面白いと同時に奥が深いと改めて思った次第である。  

 

     

【公園入口の赤い欄干の橋】         【水汲みの人たち】

 

   【清流の受水口】              【隣接する長嶺神社への階段】

この長者屋敷清水をさらに上っていくと、安比清流わさび園があり、わさびを直売してくれる。セカンド安比の雄大な姿が望める場所もある。山の中腹なのでこれからの夏場の暑い時期に、避暑を兼ねてドライブでもいかがでしょうか?

 

 

   【安比清流ワサビ園】           【セカンド安比スキー場】